凪良ゆうさんの小説『汝、星の如く』には、さまざまな形の愛が描かれています。
一般的な価値観だけでは説明できない関係や、簡単には善悪を判断できない人間たち。その姿を見ていると、作者はこの物語を通して何を伝えたかったのだろうかと考えたくなります。
今回は、作品から読み取れるメッセージについて、3つの仮説を立てながら考察していきます。
※本記事には物語の重要な内容に触れる部分があります。未読、未鑑賞の方はご注意ください。
1. 「愛は一つではない」ということ
まず考えられるのは、愛の形は一つではないというメッセージです。
本作には、さまざまな愛の形が登場します。
親子の関係から、暁海と北原先生の「互助会員関係」に至るまで、一般的な価値観だけでは説明しきれない関係が描かれています。
周囲から見れば歪んでいるように思える関係もあれば、簡単には理解できない関係もあります。
島という閉じた環境で暮らす彼らの関係は、噂の種の格好の餌食だったことでしょう。
しかし、だからといって、そこにある感情まですべて否定できるのでしょうか。
もちろん、彼らの関係が常に幸福なものだったわけではありません。
櫂も暁海も、親に振り回されることで苦しみ、ときには傷ついています。
それでも、愛おしく思ってしまう。
そうした感情は、必ずしも一般的な家族像や恋愛観だけでは説明できません。
また、暁海が父親の浮気相手である瞳子さんから刺繍を教わる関係も、普通ではありえないことのように思います。
本来なら、自分の家族関係に亀裂を入れた人物とも言えるからです。
それでも、二人の間には刺繍を通じたつながりが生まれます。
こうした描写を見ていると、人間関係は「正しいか、間違っているか」という二つの基準だけでは捉えきれないのだと感じます。
「普通とは何か」、「普通でなくてはいけないのか」など、人々の持つ偏見や固定概念を覆す作品だと思いました。
愛の形は一つではありません。
この作品は、人間関係がいかに複雑か、そしてそこからそれが決して傍から見てわかるようなものではないことを教えてくれていたのかもしれません。
2. 「偏見」に囚われない人でいるために
次に考えたいのは、偏見や噂に囚われることへの批判です。
本作には、一般的な価値観から外れた関係や、周囲から理解されにくい生き方が描かれています。
しかし、櫂や暁海、北原先生、尚人といった人物たちを見ていると、彼らは互いを単純な分類だけで判断しているわけではないように感じます。
もちろん、彼らの間にも葛藤や衝突はあります。
それでも、相手を一つの属性だけで判断するのではなく、その人自身を見ようとする姿勢が感じられます。
それは、彼らがどういう生き方をしてきたのかから始まり、どういうふうに生きているのかまで、その多くが「一般的ではない」からだと思います。
当事者だからこそ、枠にはまらず、柔軟で、偏見にとらわれない考え方ができるのです。
人間はそれほど単純な存在ではありません。
一つの行動だけで、その人のすべてを理解することはできません。
ある関係が一般的な価値観から外れているからといって、それは悪でもなければ、理解できないのです。問題は、「理解しようとしない」姿勢なのかもしれません。
このように考えると、本作は、偏見に囚われて人間を単純な傾向だけで捉えることの危うさを描いているとも解釈できます。
ただし、物語に明確な偏見を持つ人物が関与しないからといって、それがそのまま作者の意図を示しているとは限りません。
むしろ、さまざまな人間関係を描くことで、読者自身が無意識に持っている偏見に気づくよう促しているのかもしれません。
他人を理解するということは、その人を自分の価値観に当てはめることではありません。
自分には理解できない部分があると認めたうえで、その人がどのように生きているのかを見ようとすること。
本作には、そんな姿勢を考えさせる力があるように感じます。
3. 「メッセージ」ではなく、ただ一つの物語がある
最後に紹介したいのは、私自身が最も気に入っている解釈です。
それは、作者は必ずしも明確なメッセージを伝えようとしているわけではなく、ただ一つの物語を描いているのではないか、という考え方です。
凪良ゆうさんは、BLドラマ『美しい彼』の原作者としても知られています。
『汝、星の如く』と『美しい彼』は、物語の内容も登場人物も異なります。
しかし、どちらの作品にも、明確な教訓を一言でまとめることが難しい、人間同士の関係が描かれているように感じます。
そこには、必ずしも誰もが納得できる正解があるわけではありません。
ただ、そこに一つの物語があり、必死に現実を生きる人間たちがいる。
『汝、星の如く』には櫂と暁海の物語があり、『美しい彼』には清居と平良の物語があります。
彼らは、何かのメッセージを伝えるためだけに存在しているわけではありません。
彼ら自身の人生があり、感情があり、選択があります。
そして、その結果として物語が生まれているのです。
昨今では、物語を観たり読んだりするときに、「この作品は何を伝えたかったのか」「この描写にはどんな意味があるのか」という問いが先行することがあります。
もちろん、作品のメッセージや意味を考えることは、物語を楽しむうえで重要な方法の一つです。
しかし、その問いばかりに意識が向いてしまうと、そこに生きている人間そのものを見失ってしまうこともあるのではないでしょうか。
すべての物語に、誰もが納得する明確な答えが用意されている必要はありません。
ある人物が何を考え、何を選び、どのように生きたのか。
その姿を見つめること自体に、物語を読む意味があるのかもしれません。
私は、『汝、星の如く』の魅力も、そこにあると感じています。
作者が何か一つの教訓を伝えたかったのかどうかは、断定できません。
しかし、明確なメッセージを探すことだけが、物語の楽しみ方ではないということは、本作を通して考えさせられました。
さらに、そうした考え方をして、「物語の中の人物を見る」ことそのものが、現実の人間をよく理解できる可能性もあるのです。
まとめ:物語の意味を探すことと、物語そのものを味わうこと
今回は、『汝、星の如く』で作者が伝えたかったことについて、3つの仮説から考察しました。
- 愛の形は一つではなく、一般的な価値観だけでは説明できない関係もある。
- 偏見によって人間を単純に分類することには、危うさがある。
- 物語は、必ずしも明確なメッセージを伝えるためだけに存在しているわけではない。
いずれも、作品から読み取れる可能性の一つです。凪良ゆうさんが実際に何を意図していたのかは、作品だけから断定できません。
特に私が大切にしたいのは、三つ目の考え方です。
物語の意味を探ることは、作品を深く理解するための一つの方法です。
しかし、意味を見つけることばかりに意識を向けるのではなく、そこに生きている人間たちの姿を、そのまま味わうことも大切なのではないでしょうか。
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